人に会えば挨拶をする。
ゴミがあれば手を伸ばして片づける。
皆が当たり前にやれると、やっていない方が恥ずかしくなり、
恥ずかしくてもやっているうちに、やらないと落ち着かなくなる。
これって、本当なのです。
今は学校跡しかない西臼杵郡日之影町の学校での思い出です。
まず、29名の全校児童に迎えられた新任式での校歌にビックリ。
全力で顔を真っ赤にして歌う子どもたち。
全力で歌うのが当たり前、声を出さない方が恥ずかしい感じでした。
校舎は古い木造でしたが、教室も廊下もピッカピカ。
タイル張りの校舎では分からないですが、木の床は乾いた雑巾で磨くと光るくらいにきれいになるのです。
僻地の冬は寒い
その中でも額に汗しながら床を磨く子どもたち。
みんなで使う学校をきれいにするのは当たり前、サボる方が恥ずかしい雰囲気でした。
特定の教師の指導ではなく、学校の当たり前が受け継がれていたのです。
この学校から市内の学校に転任した時に聞いた校歌は、300名の声のはずでしたが、あまりの小ささに拍子抜けしました。
違った当たり前が、幅を利かせていたのです。
小さい声が当たり前、歌わないのが当たり前、挨拶さえできないのも・・・。
「学校の当たり前」は、時として無言の強制力になりかねませんから、「当たり前」ありきでは、苦しい子供も出てきます。
だからこそ
校歌に込められた願いや祈り
清掃で後輩に公共物をバトンタッチする責任
挨拶は人を受け入れる準備ができているサイン
など、当たり前の意味をしっかり伝えなければなりません。
意味が分かっていないのにやるのは作業
意味が分かってやるのは自分磨きになりますからね
当たり前が影を潜め、自由奔放が許されすぎると、アナーキー(無政府・無秩序状態)になり、どんな社会も崩壊することはよく知られています。
一方、必要最小限の当たり前が高いレベルで守られている社会は、安心のコミュニティです。
学校は社会に出るまでの練習の時間だと考えると、必要最小限の当たり前を教えるのは「当たり前」でしょう。
今回のお話はこれで終わります。
次回をお楽しみに。
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