以前のブログ

2025年4月30日水曜日

当たり前

人に会えば挨拶をする。

ゴミがあれば手を伸ばして片づける。

皆が当たり前にやれると、やっていない方が恥ずかしくなり、

恥ずかしくてもやっているうちに、やらないと落ち着かなくなる。

これって、本当なのです。


今は学校跡しかない西臼杵郡日之影町の学校での思い出です。

まず、29名の全校児童に迎えられた新任式での校歌にビックリ。

全力で顔を真っ赤にして歌う子どもたち。

全力で歌うのが当たり前、声を出さない方が恥ずかしい感じでした。


校舎は古い木造でしたが、教室も廊下もピッカピカ。

タイル張りの校舎では分からないですが、木の床は乾いた雑巾で磨くと光るくらいにきれいになるのです。

僻地の冬は寒い

その中でも額に汗しながら床を磨く子どもたち。

みんなで使う学校をきれいにするのは当たり前、サボる方が恥ずかしい雰囲気でした。


特定の教師の指導ではなく、学校の当たり前が受け継がれていたのです。


この学校から市内の学校に転任した時に聞いた校歌は、300名の声のはずでしたが、あまりの小ささに拍子抜けしました。

違った当たり前が、幅を利かせていたのです。

小さい声が当たり前、歌わないのが当たり前、挨拶さえできないのも・・・。


「学校の当たり前」は、時として無言の強制力になりかねませんから、「当たり前」ありきでは、苦しい子供も出てきます。


だからこそ

校歌に込められた願いや祈り

清掃で後輩に公共物をバトンタッチする責任

挨拶は人を受け入れる準備ができているサイン

など、当たり前の意味をしっかり伝えなければなりません。


意味が分かっていないのにやるのは作業

意味が分かってやるのは自分磨きになりますからね


当たり前が影を潜め、自由奔放が許されすぎると、アナーキー(無政府・無秩序状態)になり、どんな社会も崩壊することはよく知られています。

一方、必要最小限の当たり前が高いレベルで守られている社会は、安心のコミュニティです。


学校は社会に出るまでの練習の時間だと考えると、必要最小限の当たり前を教えるのは「当たり前」でしょう。


今回のお話はこれで終わります。

次回をお楽しみに。

次回はこちら


前回はこちら



0 件のコメント:

コメントを投稿

技術の進歩を上手に生かそう

昨年度のことです。 ある研修会を依頼されましたが、台風接近が予想され、急遽、延期の依頼に変わりました。 ところが、台風は予想された時刻に日向市に到達しませんでした。 研修は可能だったのですが、それも後の祭り。 いつもながら、自然の前では人間は無力です。 ただ、今の時代は、ネットで...