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2025年4月29日火曜日

名前の大切さ

春になって、昆虫たちも元気になってきました。

本センターの窓にも一日に何匹かの蛾が飛んでくるようになりました。

ところで、昆虫の数は、1匹、2匹と数えますが、ほかの生き物はどうでしょう?

基本的に、人より小さな生き物は「匹」を使い、人よりも大きな哺乳類は「頭」を使います。

つまり、犬なら1匹、2匹

牛なら1頭、2頭

ニシキヘビは人よりも大きいけれど、1頭とは言わず1匹。


他の数え方として

魚も1匹、2匹ですが、食材となるときは1尾、2尾、大きな魚となれば1本、2本

イカなら、1杯、2杯

鳥なら、1羽、2羽

普段何気なく使ってはいますが、日本語の数え方は面白いものです。


では、人間の数え方はどうでしょう

1人、2人

やっぱり特別です。

この数え方で牛を数えるなら、1牛、2牛 豚なら1豚、2豚になりますから。


もっと特別なのは1名、2名と名を意識した数え方があることです。

報道でも、「事故で3人が不明です。」なら、不明の人の身元は分かってないだろうなと想像しますが「3名が不明です。」となれば、誰が不明なのかは分かっていそうです。

つまり、人は一人一人が名前を持つ特別な存在であることが分かります。


その意味でも先生が児童生徒の名前を覚えるのはとても意味あることです。

子どもにとって自分の名前を憶えてもらうことは、自分が存在することになりますから。


1人ではなく1名になる生徒

いつまでも1人の生徒

では、存在感が違いますからね。


名を大切にしない指導者(先生、リーダーや経営者)は、人を大切にしているとは言えないと思うのです。


今回のお話はこれで終わります。

次回をお楽しみに。

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2025年4月27日日曜日

話を理解するために大切なこと

文字となった言葉、新聞でも雑誌でも、レポートでも

初めはとっつきにくいと感じても、何度か読んでいけば分かることも多いのが世の常。

「読書百遍意おのずから通ず」とはよく言ったものです。

理解しようと努力するなら、文字なら読む速さやを自分でコントロールできますし、分からなければ立ち止まって考えながら読み直すことができます。

そういう意味では、読み手が主人公になれる可能性が高いとも言えます。


ところが、人の話というのは百篇も聞けない一発勝負です。

しかも、話の速さは、話し手次第であり、聞き手にはコントロールできません。

ですから、相当な集中力や理解力が求められるのは当たり前です。

しかも、情報量は、文字の数百倍。

データ量としては、文字ならキロバイトなのに対して、音声データならメガバイトの世界。

SNSでの文字のやり取りならデータ容量を気にしなくてもよいのに音声や動画は容量に気をを使うことからも分かります。

なぜなら、音声にはリズム、音量、音質、ピッチ、間合いなど、その要素は多様です。

文字なら出筆者名を変えて盗作も可能ですが、よほどの物まね名人でないと音声のコピーは非常に難しい。

原稿が全く同じものでも読み手の声で全く伝わり方が違います。

ですから、人の話を一発で理解するのは、きわめて至難の業なのです。


それなのに大人(私)は

「何回言えば分かるんだ!」

と言ってしまいがちです。


それは、とても高度なこと

国語の聞き取りのテストでは、、皆を静かにさせ、音声に集中させたうえで、メモを取らせながらやるくらい緊張を伴うことなのですから。


ザワザワの状態で先生の話が伝わらないのは当たり前だと言えます。

人の話は、案外小声でのつぶやきが心にしみます。

ですから、

「私は地声が大きいから、マイクは必要ありません。」

と言って、大声で指示を出す先生がいますが、その先生の頑張りほど中身は伝わらないのが常です。

研修も同じ。

講師を務めることが多い私も、受講者数が多くなくてもマイクを使いたのはそのためです。


ですから、当センターが進めている「よのなか教室」でも、話が入っていく雰囲気づくりを大切にしたいと考えています。


折角なら、学んだことが身に入っていくものにしたいですからね。

スクラップラーニング(学んだつもりでも、結局は学んだことがすぐに失われ、時間だけが浪費されてしまう学び)は避けなければなりません。

今回はこれで終わります。

次回をお楽しみ。

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2025年4月23日水曜日

繰り返すことが変化を促す

 教科書が紙からデジタルになろうとも、変わらないのは文字を読むという行為。

特に教科書は、日本語のよさが詰まった教材が系統的に対置されているので、それらをしっかり読み込めば、理解力が高まります。

言葉の理解力が高まれば、人の気持ちの理解も進みます。

言葉の数が増えることで、様々な感情を理解し、表現できることになりますから。

小さな子が自分の感情をうまく伝える言葉がなくて反抗期を迎えたり、小中学生が心体の変化に戸惑って、心の中を上手に表せずに反抗することからも、言葉の大切さが分かります。


ところで、学校の教科書

何度も読むのって大変ではないですか?

でも、それはとても意味のあることです。


一回しか読まないというのは、川に例えるなら上流に向かう作業

速さや深さを変えながら流れてくる水(作者の思い)、コケそうな川底の石(難解な言葉)を体に受け止めながらの川登りと同じです。

やっと上流にたどり着いたとして、もうヘトヘト

その状態で、その川の様子が全て分かる訳ではありません。


それに比べて何回も読むというのは、上ったり下ったりしながらの作業

下りながら岩場を確認したり、もう一度登りながら足場の悪いところや流れの速いところを慎重に進む作業です。

ですから、読めば読むほどストレスが少なくなっていき、はじめは気づかなかった言葉にも気づくこともあるのです。


興味のないものを何度も読むのは大変ですが、国語の教科書は、選ばれた内容のものが詰まっていますから、何度も読めば結構味わえます。


はじめは硬くて歯が捥げそうなスルメも、何度も噛んでいけば、そのうち口の中で柔らかくなって味わせるのと同じです。


本センターが進めているよのなか教室も同じです。

その前後での取組で、理解できるか、味わえるかが違ってくるものだと考えています。


今回のお話はこれで終わります。

次回をお楽しみに

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2025年4月22日火曜日

空気穴

昨日ある研修会に出たところ、自燃性の人育ての大切さが説かれていました。

その方の説によると、人間には、

①自らの使命感や熱意によって燃える自燃性の人

②自燃性の人間が近くにいると素直に感化されて燃えていく可燃性の人

③自燃性や可燃性の人が近くにいようが、燃えない不燃性の人

の3タイプがあるとか

私はその話を聞きながら、③の不燃性にも

・知識、経験、感性が未熟で、火が付きにくい人

・斜に構えていて、燃えること自体に価値を見出さない人

がいるのではないかと考えました。


学校に置き換えると

自燃性の生徒には、下手な宿題や課題を与えて縛らない方がいいと思います。

可燃性の生徒には、興味や関心を引き出し火種がともるような手立てが必要でしょう。

褒美や成績順は一時的な火種にしかなりませんからね。

問題は不燃性の生徒

火がつかずに終わらせるわけにはいきません。

せめて自分を照らすくらいの灯をともさせ、裸の我儘な「王」ではなく、自分の人生の当事者、責任者の「主」にさせたいものです。


小学校の理科で空き缶の中に折って小さくした割り箸を入れて火をつける実験があります。


ところが、このままでは火をつけてもすぐに消えてしまいます。
何しろ、空気は間の上部だけにしか入りませんから、新たな酸素が入ってこないのです。
だからどうするかというと、缶の下に穴をあけ空気の通り道を作ってあげるのです。
すると、なかなか燃えないものも勢い良く燃え始めます。
木が不燃性ではなく、燃やすための空気の通り道が確保できていなかったからなのです。

これをキャリア教育の視点で考えてみると

全方向の木が燃えるように空気穴は多方向がいいだろう
全ての子どもの心が燃えるように、キャリア教育はすべての教科で、多くの大人の協力を得ながらやった方がいいだろう

つまり、毎回同じ方向、しかも学校の先生だけでは心が燃えないとも考えられるのではないかと思うのです。


特に、この空気穴

親が一生懸命に開けると、子どもは逃げたくなるのが世の常

だからこそ、日向の大人はみな子供たちの先生として空気穴を開けるお手伝いを願いしたいのです。

今回のお話はこれで終わります。

次回をお楽しみに。









2025年4月21日月曜日

町の教育力が未来を拓く

 江戸末期、浦賀に突然現れた黒船

船全体が黒いタールで塗られた蒸気で動く海の城

江戸湾は大騒ぎでした。

それまでに来ていた欧船とは構える砲門の大きさも数も全く違う威容

しかも、幕府からの停戦命令を無視し、湾内深くに入り込み船からの測量を始める始末

幕府の下級官僚に鎖国しているから出て行ってくれと言われても知らぬ顔

幕閣との交渉を要求します。


その時に日本各地の藩から偵察が派遣されました。

国の一大事になると、皆が考えてのことです。

そして、その様子を見た斥候たちは自分の藩に急いで戻りました。


宮崎県は小藩が多いのですが、多くの藩は、方針を決められず、戦うことから200年以上遠ざかっていた武士たちへ

「武具を整えよ」

と伝えるのがやっと。

産業革命を終え、蒸気船に加えて射程距離が格段に優れている銃や大砲も持っている相手に、こんな命令がやっとというありさまでした。


そんな中、今の日南市の飫肥藩では、その情報で、

「日本は開国すべきかどうか」

を喧々諤々話し合います。

もともと木材などの商取引などで上方の情報も多く集まっていましたし、

島津や伊東と言った強い藩への備えなど緊張感を持った藩の経営をしていたからなのでしょう。


その話し合いのレベルはまさにお見事


後の外務大臣小村寿太郎が生まれたのもただの偶然ではないでしょう。

もちろん彼を育てた飫肥藩の振徳堂、そして今の東大に推挙した指導陣あってのことです。


我が町日向市も、令和の今

そんな土壌を作りたいものです。

今回のお話はこれで終わります。

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2025年4月20日日曜日

友達の学ぶ権利

国民の三大義務は、勤労、納税、教育を受けさせる
三大権利は、教育、生存、参政

このどちらにも入っているのが、「教育」
義務の教育は、保護者がその子供の教育を受けさせる義務です。

ところが、明治期に導入された学制では、反対一揆が起こるほどでした。
明治の後半になって、義務教育が無償化されてからは、就学率も上がりましたが、
最初の頃は、国民の理解をなかなか得られませんでした。

主な理由は
・学ぶ内容が、現実社会で本当に役立つものか疑わしい
・学校の建設費は地元負担、授業料は保護者負担
・大切な働き手でもある子どもが奪われる。
などなど

その時代からすると、今は高校授業料や義務教育での給食無償化の動きまでありますから、
隔世の感があります。

ただ、「学ぶ内容が現実社会で役立つかが疑わしい」というのは、今もあるのかも?

昨年から、様々な大人に
「学校で学んだことは、何割くらい役立っていますか?」
と問うたところ、多くの人が、2.3割と答えたのです。

もし、今、学んでいる生徒も、教えている先生もそんな意識なら寂しいものです。

せめて、今学んでいることが未来に役立つものだと思えるものにしていきたいものです。
そのためにキャリア教育が大切です。

さて、学ぶ権利の視点で見ると

一人一人の学ぶ権利は保証されなければなりません。

つまり、自由や自主性を勘違いした一部の生徒の奔放な行動が、誠実でやるべきことをちゃんとやれている生徒の学びを阻害していたとしたら、強く戒める必要があります。

国民に与えられている権利の侵害ですからね。

中学生の部活動の大会でよく見る風景ですが、離合集散が早く、メリハリのある行動できるチームは強いです。

自主性と規律の塩梅は、いつの時代も課題です。

ただ、こういったことを議論しながらコミュニティスクールとして改革を進めていくことは大切だと思います。

どうしても2,3年で替わる宮崎県の校長の任期では

じっくりやろうとすると時間切れ

勢いよくやろうとする協力者を得られない

そんなジレンマを抱えてしまいますから。

みんなで子供たちの学びを考えたいものです。

今回のお話はこれで終わります。

次回をお楽しみに




2025年4月17日木曜日

時間泥棒

 昔、時代劇で瓦版売りが「てーへんだ、てーへんだ」

と街中で叫び、何だか大事件が起こったみたいだと思わせて、人だかりを作り、

「め組の女将が、かんかんになって若い衆を引き連れて、〇〇藩のお屋敷に乗り込んだそうだ。実は、若い衆が前日に、お侍さんたちに騙されて金を取られた上に、痛い目にあわされたって言うから、ただごとじゃねえ。調べてみると何だか藩ぐるみの悪だくみのにおいがプンプンしてきやがる。何しろ出入りの○〇屋の・・・。おっと、詳しく知りたければ、この瓦版買いねえ、買いねえ。」

といった感じの場面が多くありました。

考えてみると、今のネットニュースと同じやり方。

読者の興味を引き付けておいて、詳しく知りたければ、有料会員登録に誘導されますから。


商売というのは、どれだけ人の関心を引くかにかかっています。

ですから、スマホでもテレビでも

何とか関心を引こうと必死の広告が流れます。


となると、ネットやテレビで楽しんでいるつもりでも、もともとはそれほど興味も関心もなかったことを次々に見せられて、自分の時間を足られているのです。

成人するまでの時間は、大人のそれと違って、神様から与えられた瑞々しい脳の働きを生かせる時間。

どの子もポケモンのキャラクターを全部覚え、その特徴まで言えるくらいの記憶力も持っています。

歳をとると、ひなた坂46とか○〇〇48とか言われても、どの子も同じ顔にしか見えないし、名前を覚えるなんてとんでもないのですから。


そう考えると、子どもたちが、関心を引くビジネスの餌食にならないようにしてあげるのも大切です。

その時間は、ビジネスに利用されるための時間であり、自分を磨く時間にはなり得ないからです。

子どもたちには、もっと有効に時間を使ってほしいですし、どうせなら将来への関心につながる情報にアクセスさせたいものです。

「てえへんだ。」に時間を取られる方が、「てえへんだ。」  ですから。 


今回のお話はこれで終わります。

次回をお楽しみに。

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2025年4月16日水曜日

シーソーゲーム

 ○か×か

何でもイギリスの有名な学者さん(ケンブリッジ大学のバーバラ・サハキアン教授)の研究によると、人間は一日に35000回も決断をしているそうです。

決断というと大げさですが、例えば食事でも、ご飯からたべるか、おかずから食べるかとか

多めに口に入れるか、小さく切って口に入れるかとか、無意識のうちに何千回も決断しているらしいのです。

そう言われれば、確かに、同じメニューでも食べる順番や量は同じではない気がしますから、毎回微妙に違う決断をしているのかもしれません。

ただ、この簡単で、ストレスのない決断と違って、人間にはストレスたっぷりの重い決断を迫られることがあります。

学生で言えば、毎日の家庭学習はその最たるものでしょう。

今やるべきか、ご飯を食べてやるべきか、スマホで遊んだ後にやるべきか

結構重たい決断です。

そして、重たいが故に決断を先延ばしにしてしまいがちになるもの

親としては、グズグズしている我が子に

「早く勉強しなさい。」

と言いたくなるのもです。


ただ、この重い決断は、○か×、1か0ではありません。

子どもとしては、

「やらないとけないなあ・・・」の気持ちが49%

「やりたくないなあ・・・・」の気持ちが51%

その差はたったの2%でグズグズしてやらない決断をしていることもあります。


それなのに、自分に全くやる気がないと親が誤解して

「早く勉強しなさい。」

と言われれてしまうと、何だか自分を全否定された気持ちになって

やる気が薄れてしまうのです。


では、どうすればいいのか?


それは、49%の気持ちと51%の気持ちを

逆転させればよいのです。


そのお手伝いができるのが、斜めの関係の大人

そんな気持ちのシーソーの傾きのお手伝いをキャリア教育支援センターでは行っています。


今年度も、やる気がもらえる魅力的な大人との出会いを計画中です。

今回のお話はこれで終わります。

次回をお楽しみに。

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2025年4月14日月曜日

今頃になって、反省する昭和の常識

 先月は高等学校の卒業式、今月も高等学校の入学式に行きました。

春の息吹を感じる中、清新の子どもたちの様子にエネルギーをもらいました。


その式の最中に思ったの「式のそもそも」です。

何でもそうですが、そもそもの目的を失うと、表面だけものになってしまいます。


小中学校の一部では、校長や来賓がステージに登降段するタイミングで、生徒たちが一斉に立ったり、座ったりします。

高校でさえ、進行役の「起立」「着席」の合図を生かしているのに、小中学校で、そんなことが必要なのでしょうか?


日本の大きな行事では、どうしても個よりも集団

個性よりも規律や団結力を重視します。


であれば、なぜ、そんな立ち居振る舞いをする必要があるのかを

事前指導の際、生徒に理解させる必要があるのではないでしょうか。

意味も教えず、

「合ってない。」とか「立つタイミングが遅れた。」と叱責されたら、誰だってやる気は出ませんから。


卒業生の団結力を見せる、

皆で育んだ規律のよさを見せる

そして、その様子が式の厳粛さを後押しする。(軍隊指導ではないので、これも賛否両論あるでしょう)


その意味も教えず、繰り返される所作指導で、逃げたくなる生徒が出るのも頷けます。


運動会の行進の練習も同じ

そもそもの意味を教えられずに、

「足が揃っていない」とか、「止まるタイミングがずれた」

と言われるだけで延々と続く行進練習に意味を見出せません。


建前の指導は考え直したいものです。

昔、そんな指導をしていた私の反省でもあります。

今回のお話はここで終わります。

次回をお楽しみに

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2025年4月13日日曜日

未来を考える楽しさ

 どうしても歳を重ねると、話題が過去のことばかりになりがちなのは世の常ですが、

聞かされる側からすると

「その話は、もう5回は聞いた。しかし、話の腰を折るのもなあ。」

と逃げ道を失ってしまいます。

ところが、話す方は、毎回初めて話しているつもりなので、表情や声色、時にはジェスチャーも交えながら、とても生き生きしています。

聞かされる方としては、

「そろそろオチの場面だな。」

と展開まで読めて、冷めていくのですから皮肉なもんです。


仕事を離れ、社会的なつながりも無くなっていくと、漠然とした未来よりも、過去の記憶の方が鮮明で話しやすいのでしょう。

ただ、未来の話ができなくなるのは寂しい気もします。


しかし、年をとっても、未来を考える手掛かりがあります。

その一つは、自然の変化です。

「年年歳歳花相似たり、歳歳年年人同じからず」

人の入れ替わりはあっても、花は咲き時を忘れず、季節を教えてくれます。

花を見る楽しみは、未来にたどりつく喜びなのかもしれません。


ですから、桜の開花予想が堂々とニュースとして成り立つのでしょう。


私の先輩方には、家庭菜園を楽しみにされている方が多いのですが、

これまた、未来を楽しむ方法の一つだと思うのです。


では、小中学校で、未来を具体的に考えさせる教育は十分でしょうか?

収穫を楽しみにしない農作業

未来と結びつかない学習

どちらも、なかなかやる気が出ませんよね。


努力して「実り」を得られる結末を迎えた時、「成果」を得ます。

単なる結果ではなく、未来の実りを迎える成果を考えた教育を進めたいものです。

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2025年4月9日水曜日

「登校する」「下校する」

 トム・クルーズの最新作「ミッションインポッシブル:ファイナルレコニング」が来月封切されます。

62歳の大スターは、今度はどんなアクションを披露してくれるのか

衰えて燃え尽きそうなスターダストの私には想像もつきません。

さて、映画館に行く時に「登場」、出る時に「下場」とは言いません。

「入場」か「入館」、「退場」か「退館」でしょう。


ところが、学校は、いまだに「登校」、「下校」

全ての学校が山の上にあるわけでもないのに

「登って」「下る」のが学校になっています。


もしかすると、「御上(おかみ)」の意識が、その言葉に含まれているのかもしれません。

役所の勤務が「登庁」「退庁」なのに対して

会社は「出社」「退社」ですからね。


しかし、開かれた学校、コミュニティスクールを目指す時代

学校に登ったり、下ったりするような精神的な段差があるとするならば、それは解消したいものです。

これから学校では、初めての懇談やPTAの総会など、行事も目白押しでしょう。

ですから、学校は「登ったり」「下ったり」せずに済む存在として、皆の知恵を出し合って人育てをする場所になってほしいものです。


なぜなら、大人の見えない意識や価値観は、隠れたカリキュラムとして、子どもたちに伝わってしまうからです。

春の満開の桜とともに、皆で花咲く春を始めましょう。


今回のお話はここで終わります。

次回をお楽しみに。

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2025年4月7日月曜日

ご先祖様の贈り物

以前、学校の管理職候補者向けの研修に、清武のキュウリ・ピーマン農家の方に話をしていただきました。

経営マインドを学んでももらおうと考えてのことです。

農業は厳しい経営環境のところが多いと聞いていましたので、その環境を打破した積極経営の話を期待してのことです。

確かに、年間を通じて収入につなげる作物のローテーション、機械化や販売域を広げる取り組みなど、非常に興味深かったのですが、今でも覚えているのは、「ご先祖様からの贈り物」の話です。

「地域の発展のためには、交通網の整備は大切です。そのために、農地の一部を道路にし、代わりの土地を提案されることがあります。しかし、私は、決してそれを受け入れません。」

素人の私は、代替の土地がもらえるのであれば、いいのではないかと思いましたが、彼は、

「畑の良しあしは、土です。しっかり鋤(す)きこまれた畑は、深さ1mくらいまで、絶妙の柔らかさで、水を逃がさず、ため込まず、養分もしっかり貯めこまれています。ですから、自分の畑はご先祖様からの贈り物なんです。」

「代替の土地を、自分の代で耕しても、せいぜい表土の20CMくらいしか畑らしい土には変わらないのです。だから、自分の土地を手放すというのは難しいのですよ。」

と続く説明に、納得させられました。

畑の価値が、面積やお金ではなく、それまでにかかった年数とは恐れ入りました。


さて、教育ではどうでしょう

これまでの教育をすべて是とする必要はありません。

ICT,AI、協働、探究など

時代の変化の速さに対応できていない現状は改善が必要でしょう。

一方

人を育むための「ご先祖様からの贈り物」も大切にしたい。

勤労、誠実、責任感、自己管理


この両面をキャリア教育でも大切にしたいと考えています。

今回のお話はこれで終わります。

次回をお楽しみに

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2025年4月6日日曜日

期待を裏切ろう!

「期待を裏切る」と聞けば、何だかマイナスなイメージ

しかし、ここで言う「期待を裏切る」とは、相手の期待以上の喜びや満足感をもたらすものを表しています。

これは、宮崎県の管理者研修でビール会社の社長に聞いたお話です。

「企業では、クレームが命です。一つ一つのクレームに対応していくことが、商品の質を高め、サービスの見直しにつながります。クレームに対応しないということは、自分たちの生み出す物で自己満足している状態で、改善は見込めません。もちろん、個別のクレームの中には首をかしげたくなるようなものも混じっています。しかし、我々は、消費者の期待を裏切ることで、成長をしてきました。」

だから

・怒鳴るようなクレームを受け止め、対応も丁寧で、自省に役立てている。

・ちょっとした味のリクエストに全原料を見直し改善してみる。

そこまでやるのかと感心しました。

しかし、学校ではクレーム担当の窓口が独立してませんから、こう上手くはいかないでしょう。

ただ、このクレームを改善につなげる姿勢は学べる気がします。

特に、自分たちが作るビールは現時点では最高だけど、まだまだ伸びしろがあると考える姿勢です。

あなたの最高傑作は、どれですかと尋ねられた芸術家が

「もちろん、次の作品です。」

と応じる感じに似ています。


新年度が始まり、学校も会社も、現状を是とせず、次の作品作りのヒントを柔軟に取り込める組織でありたいものです。

結局、生き残るものは強いものではなく、変化に対応できるものですからね。

今回のお話はこれで終わります。

次回をお楽しみに

2025年4月2日水曜日

新しいNOTE

新しい学年になると真っ白のノートに学びの跡が記されていきます。

今回は、学校でのノートについて考えてみましょう。


このトピックにした理由は、企業採用時、新卒学生の記録スキルのなさが話題になっているからです。

もちろん、スマホの写真機能を使えば、説明資料の保存はできますが、内容理解は遠いかもしれません。

その意味では、要点をメモする力は大切でしょう。

それにしても、小学校1年生から、毎日授業を何時間も受けて、黒板に書かれたものをノートしてきたのに、メモする力がないとは恥ずかしい限りです。

もしかしたら、子ども達にとっては、ノートの目的が、要点を整理することではなく、何も考えずに素早く黒板のものを写すことになっていたのかもしれません。

写すだけなら、そのほとんどは教科書にもっと詳しく書かれていますから、苦労の割には学びの効果は薄いという残念な結果を招きます。


昔、NHKの番組で、何も考えずに板書をノートに写したグループと自分で大切と思うことを考えてノートしたグループに、予告なしのテストをした実験がありました。

結果は、前者の平均点は20点、後者は60点。

その差はなんと3倍。

前者は受け身で思考が成立せず、

後者は前向きの思考が課されていますから、当然と言えば当然です。


今や大学では、黒板は使われず講義のPDFが学生に送られる時代です。

ノートを写す時代は終わっています。

新学期になって、ノートの取り方を工夫するのも一つの手でしょう。



日向市のキャリア教育では、ノートに考えやヒラメキを入れたりする力の大切さをよのなか先生に語ってほしいものだと考えています。

メモを取れる力が、子どもたちの次の世の中に繋がることを信じて


今回のお話はここで終わります

次回をお楽しみに

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2025年4月1日火曜日

新学期の買い物

新年度になると、学校では新しい教科書と副教材と呼ばれるドリルや資料集が準備されます。

中学校までは「義務」教育ですから、教科書は無償ですが、残念ながら副教材は有償です。

その有償の物を採用するかどうかは各学校に任されており、学校によってその金額が異なります。

お子さんの沢山いるご家庭にとっては、毎月結構な金額を請求されてしまいます。


しかし、この副教材は、少し立ち止まって考える必要がある気がします。

学習内容の徹底した習得のために、問題集や学習プリントは効果的ではあります。

しかし、購入後の利用状況を考えると曖昧さを感じます。


普通、買い物は購入者が気に入って買います。

ユニクロだって、コーチの財布だってそうです。

ところが、学校で買わせる問題集や資料集は、教師が目的を持って「買わせた」ものですから、普通の買い物とは全く意味が違います。

なにしろ、児童・生徒や保護者にとっては、「買いたい」と思って買ったものではなく、「買いなさい」と言われて買ったものですから。

自分で選ぶ時、サイズや色味があってなかったら、違うものに交換します。

ところが、副教材は、そういきません。購入者の気持ちは置き去りにされてしまいます。

使うかどうか怪しい物にお金を払わされたら誰だっていい気持ちはしません。

最近のネットショッピングでは、気に入らなければ返品まで受け付けていますからね。


ですから、「学校で使うものだから」という大義名分を振りかざし、使わなかったのは子供の努力不足だと決めつけるのは、時代錯誤でしょう。

本センターのスタッフに聞いても、

「学校時代の教材は無駄が多かった。」「使いもしない辞書を大量に買わされた。」

と思い出を吐露してくれます。


この時代、副教材や辞書が使われずにきれいなままというのは許されません。


だからこそ、「買ってよかった」という満足感を使用する子供たちやお金を払ってくださる保護者に感じてもらうことが大切だと思うのです。


それが、あるる意味コンプライアンスを大切にしているとも考えます。


製造業では、「者に聞くな 物に聞け」という言葉が大切にされているとか

人の説明よりも出来上がった製品を見た方が仕事の丁寧さや工夫が実感できるという意味なのでしょう。


となれば、買わせた副教材が1年後にしっかり使い込まれていて、その様子から

「なるほど、この副教材を買ってよかった。」

と思わせる学校の努力が必要だともいえます。


その意味では、使い倒された副教材という「もの」を見せるところまでが、学校の責任です。

副教材選びは簡単ではないのです。


商取引の常識に疎い教員も、意識を変えるだけでサービスが違ってくるかもしれません。


今回のお話はこれで終わります。

次回をお楽しみに。

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名前の大切さ

春になって、昆虫たちも元気になってきました。 本センターの窓にも一日に何匹かの蛾が飛んでくるようになりました。 ところで、昆虫の数は、1匹、2匹と数えますが、ほかの生き物はどうでしょう? 基本的に、人より小さな生き物は「匹」を使い、人よりも大きな哺乳類は「頭」を使います。 つまり...