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2025年4月14日月曜日

今頃になって、反省する昭和の常識

 先月は高等学校の卒業式、今月も高等学校の入学式に行きました。

春の息吹を感じる中、清新の子どもたちの様子にエネルギーをもらいました。


その式の最中に思ったの「式のそもそも」です。

何でもそうですが、そもそもの目的を失うと、表面だけものになってしまいます。


小中学校の一部では、校長や来賓がステージに登降段するタイミングで、生徒たちが一斉に立ったり、座ったりします。

高校でさえ、進行役の「起立」「着席」の合図を生かしているのに、小中学校で、そんなことが必要なのでしょうか?


日本の大きな行事では、どうしても個よりも集団

個性よりも規律や団結力を重視します。


であれば、なぜ、そんな立ち居振る舞いをする必要があるのかを

事前指導の際、生徒に理解させる必要があるのではないでしょうか。

意味も教えず、

「合ってない。」とか「立つタイミングが遅れた。」と叱責されたら、誰だってやる気は出ませんから。


卒業生の団結力を見せる、

皆で育んだ規律のよさを見せる

そして、その様子が式の厳粛さを後押しする。(軍隊指導ではないので、これも賛否両論あるでしょう)


その意味も教えず、繰り返される所作指導で、逃げたくなる生徒が出るのも頷けます。


運動会の行進の練習も同じ

そもそもの意味を教えられずに、

「足が揃っていない」とか、「止まるタイミングがずれた」

と言われるだけで延々と続く行進練習に意味を見出せません。


建前の指導は考え直したいものです。

昔、そんな指導をしていた私の反省でもあります。

今回のお話はここで終わります。

次回をお楽しみに

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